猫も杓子も構造化

発達障害、特別支援などについて書いています。最近は心理学関係の内容が多めです。

品川裕香『怠けてなんかない!ディスレクシアー読む・書く・記憶するのが困難なLDの子どもたち』

教育ジャーナリストによる著者がディスレクシアの当事者や関係者を取材してその内容をまとめたもの。ディスレクシアの当事者やその親が抱えるつらさを、丁寧に聞き取り、ときに冷静に状況を分析し、ときに共感的でありながら、彼ら・彼女らをとりまく現実を歪めることなく伝えようという著者の姿勢が見える。

全4章の構成で、1章・2章では、それぞれディスレクシアがある本人、親へのインタビューが収められており、彼ら・彼女らいかに困難な中を悪戦苦闘しながら生きてきたかが語られている。3章は、医療機関や教育機関の関係者への取材で、具体的にどのようなサポートがあるのかを紹介している。4章は、医師とコミュニケーション・セラピストに対してQ&Aの方式で、ディスクレクシアの基本的な理解について紹介している。

以下、読んで思ったことを何点か。

教員の無理解について

1章・2章で多くの教員が登場するのだが、どの教員もだいたいLDに関する知識が無い。まるでダメな教員が登場するエピソードだけを選んでるかのごとく、だいたいが障害特性を考慮しないダメ対応をしている。この本が書かれたのは10年以上前のことなので、今は多少状況が変わっているだろうが、支援学校や支援学級にあまり関わりのない通常級の教員というのはどの程度LD(や他の発達障害)についての興味や関心を持っているものなのだろうか気になった。教員養成過程だと、教職に関する科目の中の「幼児、児童及び生徒の心身の発達及び学習の過程(障害のある幼児、児童及び生徒の心身の発達及び学習の過程を含む)」という科目が該当する領域であり、多くの大学では「教育心理学」という名前で教えられるようだ。わたしが、「教育心理学」を大学で習ったころはそんな話なかったような気もするが(授業を真面目に受けてなかっただけかもしれないが)、今の大学のシラバスちょっと調べてみると、例えば日本大学教育心理学という授業だと、「特別な支援を必要とする子ども達」というのが2回分設定されている。

http://syllabus.chs.nihon-u.ac.jp/op/syllabus40536.html

別の例では、早稲田大学教育心理学の授業のシラバスを見ると「特別支援教育」という題が3回分設定されておりシラバスにもLDのことが明記されている。

シラバス検索 - シラバス詳細照会

なので、こういった授業で触れていれば、少なくとも「LDってなんですか?初耳です。」みたいな状況はなくなっていくとは思うのだが*1、授業等でも出会わず、教員の研修等でも出会うことがなくやってきた場合に、本に出てくるような対応をする教員が出現するのだろうか。


ラベルとしての障害名の意味付けについて

「あなた(あるいはあなたの子ども)はディスレクシアです。」と診断を受けることにも、その当事者を取り囲む状況によって様々な意味があるということを本書では紹介している。例えば、1章で出てくる織田さんは診断を受けたとき、「最初はちょっとショック」と言いながらも、自分が他者に比べて読むことに苦労をしていた「謎が解けたって感じ」とあっさりとした受け止め方をしている(p.42)。また、同じく1章に出てくる坂井さんは診断を受け、30数年間苦しんできた原因わかったときのことを「その日は、うれしくてうれしくって飛び跳ねながら家に帰りました。」と書いている(p.88)。

2章に出てくる井澤さんのエピソードでは、息子がディスレクシアとの診断を受けたて最初は「とてもよかった」と思うのだが、その後、効果的な支援や指導方法には結局出会うことができずに、診断は受けたものの困難が続いていく様子が紹介されている(p.149)。

同じ診断名を知ることにも様々な反応があり、障害の告知・受容というのも「こうするべき」「こうしなければいけない」というものがある訳ではなく、それぞれに応じたあり方を考えていかなければいけないのだということを考えさせられる

*1:もちろん聞いたことがあれば適切な支援が出来るわけではないのだが、少なくともその言葉を足がかりに適切な支援を考える方向性を持つ可能性は多少高まるとは思う。