猫も杓子も構造化

発達障害、特別支援などについて書いています。最近は心理学関係の内容が多めです。

藤野博・日戸由刈『発達障害の子の立ち直り力「レジリエンス」を育てる本』

発達障害の子の立ち直り力「レジリエンス」を育てる本 (健康ライブラリー)

発達障害の子の立ち直り力「レジリエンス」を育てる本 (健康ライブラリー)

夏に著者の一人である藤野先生のお話を聞く機会があり、その中で紹介されていたので読んでみた。

発達障害のある子に「レジリエンス」という力が必要であることを説き、その力を育てる方法を解説している本。

レジリエンスとはあまり聞き慣れない言葉だが、もともとは精神医学や心理学で使われる用語らしい。著者らによると、それは「心の回復力」であり、何か落ち込むことがあったりした際に気持ちを切り替えてまたがんばろうと思える力と説明されている。発達障害のある子はその特性から様々な困難に直面しやすく、そのため、レジリエンスが必要であるというのが著者らの主張だ。

レジリエンスを育てるというと、何だか聞き慣れない言葉だし身構えてしまいそうな感じはあるが、具体的な方法としては、生活習慣を整えることだったり、子どもへの声のかけ方の工夫だったり、役割を与えることだったり、と日々の関わりの中で手軽に出来ることを具体的に挙げているので取り組みやすいと思う。

発達障害の子は〜です。」と多少主語が大きい感のある記述が気にならないこともないが、まぁ専門家に向けているものでもないので、分かりやすさを重視した結果でしょうか。


さて、以下は本書の内容とはずれるが、この概念(というより心理的な概念一般?)について読みながら考えたこと*1

レジリエンスという概念の使われ方、特に、行動の「説明」目的での使われ方には気をつけなければならないと感じている。(著者らがしているという意味ではなくて自分が扱う際にという意味で)

レジリエンスというは構成概念であり、物理的な実在を持つわけではない。言い換えれば、物理的(生理学的)に測定できるレジリエンス細胞というようなものがあるわけでなく、私達が一連の関連ある行動をもとにレジリエンスという心理的な概念が人間の内部に存在しているだろう、という風に仮定して概念を構成しているに過ぎない訳である。ここでいう関連する行動というのは「落ち込むことがあった際に気持ちを切り替え次に向かう行動を見せたか」どうかである。

レジリエンスを「育てる」という言い方をしているので、レジリエンスは心理「特性」で量的なものとして捉えられている。「困難なときに立ち直ることができる」という行動を見せる場合に「レジリエンスが高く」、「困難なときにも立ち直れない」という行動を見せる場合に「レジリエンスが低い」訳である。

だが、この概念を用いて次のような説明はできないと思う。例えば、「太郎くんはレジリエンスが高いから、発表会で失敗したけどすぐに立ち直ったんだ」とか「花子さんはレジリエンスが低いから、昨日あった友達とのトラブルからなかなか立ち直れないんだ」などである。

なぜなら、この説明ができるためには、レジリエンスという概念に関連する行動が状況を超えて一貫して生起する必要があるが、行動は個人内にある特性と状況との相互作用から生起するもので、その行動の原因が内的なもの(つまりレジリエンス)にあるとは言えないのである。

行動の記述的な説明はできると思うが、「レジリエンスがあるから(ないから)〜なんだ。」というような原因論的な説明を行い、新しい言葉が使ったから何か分かったような気になってしまうのは避けたいと思った。(あくまで便利な記述の仕方が増えた程度という禁欲的な用法が間違いを起こさない使い方ではないかと思う。)

*1:ここでの議論は渡邊(2010)の『性格とは何だったのか』(新曜社)を大幅に参考にしている。性格概念の心理学における扱われ方について詳しく知りたい方にはオススメ。