視覚的情報のランク的イメージはどこから?
構造化関連で調べごとをしていたら次のような記事を見つけた。
記事の中にこんな記述がある。
多くの人がイメージしている雰囲気として、
具体物よりも写真の方がランク(レベル)が上
写真よりも文字や文章がランク(レベル)が上 ということです。
しかし、視覚的情報のタイプはランク(レベル)ではありません。
あくまで一人ひとりにとって具体的でわかりやすいのは何か!なんです。
構造化の基本は一人ひとりに合わせてのオーダーメイドな訳だから、「ランクがどこか」ではなく「その人にとって活用できる情報は何か」が大事だというのは分かる。
しかし同時に、多くの人がイメージしているランク感のようなものが分からないでもないし、ぼやっとそのようなイメージを自分も持っている気がする。
このイメージはいったいどこから来るか考えてみると、発達の順序性みたいなところに起因するのではないかと思う。
発達順序の観点から
立松の書いた『発達支援と教材教具Ⅱ』(ジアース教育新社)では、ピアジェや太田ステージによる子どもの発達の順序を「触ってわかる世界」「見てわかる世界」「言葉とイメージの世界」と3つに区分けしている。そこでは、子どもはまず触覚によって周囲の環境を把握することからはじめて、次に見えているものを手がかりに環境を把握する段階に進み、そして、言葉やイメージを介して目に見えないものまでを理解する段階へ進んでいくと考えられている。
で、この発達の順序を先のランク的イメージに当てはめてみると、具体物というのは「触ってわかる世界」の人が活用しやすい情報であるし、写真(あるいはイラスト)というのは「見てわかる世界」の人に活用しやすい情報である。文字や文章は、「言葉とイメージの世界」の人が文字情報をもとに、今目の前にないことをイメージできる段階にあってはじめて活用できる視覚情報だ。
つまり、人間の認知発達の観点からみたら、具体物よりも写真の方が発達段階は高いし、写真よりも文字や文章は発達段階が高いわけである。ここらへんが、ランク的なイメージの出処なのではないかと思う。
「視覚的情報のタイプはランクでない」はいつだって正しいか?
だからといって、「具体物よりも写真の方がランクが上」だの「ランクが上の視覚的情報を使えるようになるべき」とかいうことを、私は主張したいわけではない。ただ、「視覚的情報のタイプはランクでない」という記事の主張を考える際に、それがどういった文脈で言われるのかについては考慮しておいた方が良いと思うのだ。
自閉症そのものをどうこうするよりも環境調整に力点を置き、地域社会での生活に直接役立つスキルの獲得を目指すTEACCH的な文脈で言うのであれば、「視覚的情報のタイプはランクでない」というのは正しいと思う。
しかし、認知の発達を促して将来的な適応行動の獲得を目指す太田ステージ的な文脈でいえば、視覚的情報のタイプにランク的なイメージを持っていたほうが良いと思うのである。発達課題を設定する際に、どの情報を手がかりにさせるかを決めるには、発達の順序性についての見通しを持っているべきだと思うからだ。
要するに、視覚的な支援が何をねらいとする枠組みで使われているかを意識するのが大切ということである。
余談
本筋にはあまり関係がないのだが、記事の中の次の例は適当でないと思った。
例えば、このwebサイトをご覧の皆さんの多くは【文章】が理解できる方です。
そんな皆さんに『トイレ』の写真カードを見せたて顎でホレホレと促したとします。
どうでしょうか?わからないですよね。
「トイレに行きます」とか「トイレの掃除をします」ならわかります。
つまり皆さんは、写真だと具体的ではないんです。
ここで読者が促されている具体的な行動を理解できないのは、読者が【文章】による理解をする人だからでなく、写真のカードの情報量が不足していて、かつ、写真により行動を促される経験がないからである。例えば、自分の仕事内容を表す掲示のところに『トイレ掃除』の写真カードが貼ってあったとして、自分はその掲示に従いその仕事を行うという習慣があるのであれば、【文章】による理解ができる人間であろうが、【写真】による指示は十分に具体的であると思う。
視覚的情報のタイプはランクじゃないという主張のために、【文章】による理解をする人が【写真】だと理解できていない例を示したかったのだろうが、設定が雑なためあまり効果的な例示になっていないのがちょっと残念だと思った。
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