猫も杓子も構造化

発達障害、特別支援などについて書いています。最近は心理学関係の内容が多めです。

アセスメントの実施と情報量の増減

アセスメントによって数字が出ると何か情報量が増えたような気持ちがしてくる。ところが実際の情報量としては減っているんじゃないかとかそんな話。

フォーマルアセスメントを実施すると言語理解指標が90だの、プランニング得点が115だの数値が出てくる。でも、これらの数値というのは、各種課題のもろもろの出来ぐあい(粗点)を同じ年齢の集団だったらどこに位置するかの値に(評価点)に換算して出てくる得点である。

なので、評価点は粗点に比べると情報量が少なくなる。評価点には同年齢の集団に対して、どの程度の位置にいるかという情報しかないが、素点には「どの課題を通過することができたのか」という具体的な意味がある。

粗点は課題に対する反応を一定のルールで数値化したものである。例えば、「ねことは何ですか」のような質問に「〜な回答だったら2点」「〇〇な回答だったら1点」「△△な回答だったら0点」といった具合で数字をつけて出されるものである。反応を数字に換算するにあたって、個々の具体的な回答の情報は捨てられている。

この意味で、粗点は「個々の課題に対する反応」よりも情報量が少なくなる。具体的な反応についての情報を「課題への通過の程度」という情報に圧縮しているのである。

また、検査で実施される各種課題というのを考えてみると、日常生活から隔離された環境において、一定の手続きをもって実施されている。能力を推定するに当たって環境要因の影響が少なくなるようにして実施されている訳である。

このようにして考えみると、検査の結果出てくる数字というのは、対象者の生きている現実から色々な情報を(一定の仕方で以て)捨てることで成り立っている数字だとも言える。

情報を捨てているというと悪いことのように聞こえるかもしれないが、捨てることによって見えてくるものがあったり、便利な点があるから捨てている訳である。例えば、情報の効率的な伝達など。Aさんのおおよその知能水準を伝えようとするのに、1日の行動をすべて文章にして書き起こしたものとIQ72と数字的に縮約したものでは、後者の方が効率的な伝達方法だし、専門家同士で解釈する分には支障がない。また、AさんとBさんの知能水準を比べるという目的があった場合に、1日の行動を文章で書き起こしたもの同士を比べると解釈は難しくなるが、IQを比べるのであれば解釈は比較的容易である。

ただ、アセスメントを実施したり解釈したりする人は、捨ててしまった情報のことを過小評価するべきではないと思う。「対象者が生きている現実」と「検査の結果出てきた数字」の距離感を忘れて、「検査の結果が〇〇だから現実でも▲▲になっていないとおかしい。」というように現実を歪める見方をしてしまっては本末転倒である。