猫も杓子も構造化

発達障害、特別支援などについて書いています。最近は心理学関係の内容が多めです。

自動詞と他動詞を意識しての報告って大事?

はてなブックマークで知った以下の記事。

www.yukihy.com

まず記事の要旨としては、子どもが何かをしてしまった際に、「モップが壊れました」のように自動詞で報告させるのでなく「モップを壊しました」のように他動詞で報告させるようにすると反省しやすくなり、指導がしやすくなるというもの。

これを読んで考えたことを2点ほど書いてみる。

「壊れました」は日本語としておかしい?

記事の中でブログ主の先生は、子どもに「モップが壊れました」を「モップを壊してしまいました」という風に言い換えて報告させている。前者の「壊れました」という表現に対し、ブログ主の先生は「日本語おかしいよね」「何気ない言動の中にも自分を守るようなことが散りばめられてる」と評しているが、私はそうではないんじゃないかと思う。

きっと、子どもの捉え方としてはモップは「壊れた」のである。壊れるなんて想定していなかったところで壊れてしまった。自分の行為と結果とがつながっていないところに、まずい出来事が起きてしまった。だからこそ、自動詞で「壊れました」と表現しているのではないだろうか。

なので必要なのは、行為と結果をつなげる振り返りなのだと思う。例えば、チャンバラごっこをしていてモップが壊れてしまったのであれば、用具の不適切な使用法が壊れる結果を招くということ、力動台車などの実験用具は、扱い方の説明を聞く前に興味本位で動かすと壊れてしまうこと。こうした、行為と結果のつながりが理解できるようにすることが大事なのではないだろうか。

自動詞を他動詞に言い換えたところで「誰が」その結果を引き起こしたかについての責任追及的な情報しか増えないと思う。肝心なのは、子どもが次回そうした失敗をしないために、「何の行為が」その結果を引き起こしたか、その過程を丁寧に振り返り、どの場面でどの判断や行動が必要だったかを示すことだと思う。

もっとも、元の記事では「その後の指導がしやすくなる」と書いているので、こうしたことも指導はするのだろう。ただ、子どもが結果に対する責任を引き受けることができるのは、自らの行為と結果が結びついた後なのではないかと思う。その過程を無視して、表現の上で責任を引き受ける言葉である他動詞的な報告を使うことにどれだけの意味があるのか、ということは考えてしまう。

反省って必要?

この他動詞による報告の目的は子どもが反省しやすくなり、指導しやすくなることだそうで、話の始まりも叱り方の難しさから始まっている。で、日頃応用行動分析学的な観点で物事を考える立場としては、反省ってそんなに重要なプロセスなのかはとても気になる。というのは、行動の変容という観点で考えるのであれば、「反省」というような内的なものをどうこうするよりも、結果事象なり先行事象なりを適切に操作していった方がスジが良いと思うからだ。

今回、「物を壊す(ことにつながる行動をとる)」という行動に対して、結果事象として叱るという嫌悪刺激を提示している訳で、これは典型的な正の弱化の手続きである。でも、一般に弱化の手続きのみで行動を変えようとするのはやはりスジが悪いわけで、同時に代替の行動なりなんなりを強化していったほうが良いわけある。例えば、モップでのチャンバラごっこだったら、場所と時間を指定した上で新聞紙チャンバラごっこ、などのように。

記事を読み、教員界隈は「心が変われば行動が変わる」というメンタリズムが一般的なんだなぁというのをあらためて思った。