猫も杓子も構造化

発達障害、特別支援などについて書いています。最近は心理学関係の内容が多めです。

LD学会所感

10月7日から9日の間に宇都宮で開催されたLD学会に参加してきた。きれいなまとめや読者に有益なまとめなどは目指さず(というか私には出来ませんし)、拡散した思考を書き散らかしておく。

親の会のシンポ、ローラクリンガー先生による特別公演、内山先生による教育講演など自分が参加したプログラムでは成人生活と教育の接点を考える機会が多かった。ローラ先生の講演では、”professional social skills”という言葉が印象に残っている。通訳の方はたしか「職業人としてのソーシャルスキル」みたいな訳し方をしていたと思う。日本の学校教育の文脈でソーシャルスキルが言及されるときは、「友達を作る」とか「相手の気持ちを考える」とかフレンドシップに関わるソーシャルスキルが想像されがちだが、ローラ先生の言うところによると職業人としてのソーシャルスキルは、困った時に支援を要求するなど職業生活で必要とされるソーシャルスキルのことを指すらしい。IQが高いASDの人でも、いつ、だれに、何を聞けば良いか分からず机の前で困ったままでいることが多い例などを挙げていた。同様な話は内山先生の講演や親の会シンポの中でも触れられていた。

ASDの人のフレンドシップに関連して、内山先生が講演の中で「少数の人との淡くて良好な関係を目指す」とのようなことをおっしゃっていたことも印象に残っている。この「淡くて」という部分がとても大切で、それが抜け落ちてしまうと、定型発達と同じような対人関係を目指すか、対人関係なんて一切いらない、の極端なものしか選択肢がなくなってしまい、ASDの人にとってはどちらもとてもしんどい選択肢になってしまうだろう。インタビューの中でASDの人も孤立・孤独は嫌だという話があり、「丁度良い」「心地いい」人間関係の構築を個別化された支援の中で見出していくことの必要性を感じた。

LD学会は学校の先生の参加者が多い。その関係もあってか参加したプログラムでは、成人生活で必要なことの議論に続き、それらをいかに学校教育の中で準備していくかというような話の流れが多かった。将来必要なことから逆算的に教育内容を検討するというのはとても重要なことに思うし、とりわけ成人生活との接続を検討する際には欠かせない視点だろう。ただ、それと同時に将来必要なことを前もって準備することには限界というものがあるだろうことも感じる。どういうスキルが必要になるかは、その人が置かれる成人生活の環境にもよるだろうから個別化・具体化が必要になる。しかし、個別化・具体化を学校教育の早期から行うことは現実には難しい側面もあるように思う(将来どんな進路になるかが小学1年生で決まっている例はまれでしょう)。となると必然的に、どんな進路になろうがある程度有益なスキル(例えば、日常生活的なものや生活習慣的なものとか)になるか、抽象的な目標(コミュニケーション能力(笑)や社会人基礎力(笑)のような)になりがちな気がする。

これは前々から言っていることなのだが、「前もって準備する」だけでなく、「必要になった時に必要な支援が受けられる」ということがあれば良いのにと思っている。学校教育の関係者はとかく「何かを教えて子供が変わる」ことにロマンを持っている人が多いのか、教育して子供を変えることが子供の幸せを達成するための最初の(そして唯一の)選択肢になりやすいように思う(それが仕事だから仕方ないけど)。でも、教育ってそんなパワフルなものじゃなくて、それこそ変えられないことの方が多いんじゃないの、って私はややネガティブに教育を考えている(だから、何もしなくて良いという話でなくて、変えられることに資源を重点的に分配しましょうという話。)。全部を教育の「中」でやりくりするのでなく、必要になった時に必要な支援が受けられるようになったり、一度失敗をしてもサポートを受けながら再挑戦できるような仕組みがあったりする社会の方がずっと素敵なものなのじゃないかと思う。支援というものを学校教育という学校を中心とした枠組みから考えるのでなく、社会の中で生活を営む本人を中心した枠組みで捉え、必要なサポートが「だれ」によって「いつ」「どこで」受けられるのかを整理して、サポートの適切・適当な分担を考えいくことが今後より必要となってくるのではないかと感じた。

他にも、考えたことは色々とあるけれどもとりあえず今日はここまで。


【やや関連すること】
nekomosyakushimo.hatenablog.com