猫も杓子も構造化

発達障害、特別支援などについて書いています。最近は心理学関係の内容が多めです。

ローズ『平均思考は捨てなさい』

平均思考は捨てなさい

平均思考は捨てなさい

統計関係でお世話になっている先生からの紹介で読み始めた。タイトルとかカバーとかは胡散臭い自己啓発本っぽいのだけれども、まともなことが書いてあるし、訳が良いのか大変読みやすい。著者の言う「平均思考」とは、平均値のみを基準にものごとを捉える思考の枠組みのことで、この考え方は私達の社会に深く根付いているが、その捉え方では多様で複雑な人間を理解することはできないと言う。

3部構成から成っており、1部では「そもそも我々の社会がどのように平均というアイデアを取り入れていったのか」についての歴史的考証がなされる。扱われる人物は、ケトレーであったりゴルトンであったりソーンダイクであったり、ちゃんと史資料に基づいて論じている。第2部では、平均思考に変わるものとして個性学を提案し、その3つ原則として「ばらつきの原理」「コンテクストの原理」「迂回路の原理」が紹介される。3部ではこの考えにもとづき、個性を活かすことに成功している企業や高等教育のプログラムが紹介され、平均思考と離れて個性を活かすための方法が説かれている。(ここらへんはやや自己啓発本感が出ている)

自己啓発的な内容にはほとんど関心がないのだけれども、自分が学んでいる心理学であったり、障害児者支援の実践と関連付けながら読んでいた。

2部で「コンテクストの原理」というのが紹介される。これは、人間の特性は環境によって変わるものであって、人間の内側に本質的な性格特性は存在しないという主張だ。コンテクストの原理に従えば、人間の振る舞いは「イフ・ゼン」として記述されるべきものであり、「▲▲な場面ならば〇〇」のように人間は状況によって特性を変えるということである。日本語で読めるものだと、サトウらの『モード性格論』であったり、もう少し専門的なところに行くと性格の一貫性論について書かれた渡邊の『性格とはなんだったのか』あたりで詳しく論じられていたと記憶している。

心理学で用いられる多くの尺度というものは構成概念を測るものなのだけれども、この構成概念はどれだけコンテクストの影響を考慮してきたかということをぼんやりと考えてながら読んでいた。状況を超えて一貫しない「心的な何か」を測っているのだとすれば、その尺度は一体何を測っているのだ、という話になってくるだろう。因子分析の結果、ほげほげの因子構造が確認されたといっているけど、その特性は本当にその人の持ち物なのか、というような話。

それとこの話を読みながら思い出していたのは、ASDの人の成人生活への移行のためのアセスメントであるTTAPについてである。TTAPでは直接観察/家庭/学校(作業所)という3つの異なるコンテクストにおけるスキルの達成度合いを評価している。「□□な(構造化された)場面ならば△△ができる」というのはまさに「イフ・ゼン」の考え方で、ASDの人は環境によってパフォーマンスが変わることに早期から気づいていたからこそのアセスメントの設計なのだろう。(その点で、従来の職業アセスメントはコンテクストの状況を無視して一次元的あるいは本質主義的な評価であったため、個性を生かすということにつながらなかったのだろう。)

「ばらつきの原理」というものも紹介されている。人はみなそれぞれ平均的であったり、平均から離れていたり特徴を持っており、個人のなかにもばらつきがある。そんな人間を多次元に測定を行なう(例えば、頭のサイズ、足の大きさ、手の長さ、指の長さ、などなど)と全ての面で平均的な「平均人」というものは存在しないということが明らかにされている。平均思考の問題点として、平均人に合わせた設計は「だれにもフィットしない」設計になってしまうことが紹介されていた。

学校教育のようなものを考えると、この「平均人」に合うようにカリキュラムが作られているので、結果として誰にもフィットしていない学校教育が提供されているのだろうと思う。算数が得意な人が必ずしも図画工作が得意な訳ではないが、多くの学校で一律に同じペースで硬直したカリキュラムで学ぶことを強いられる。UDLの人の主張なんかを思い出しながら、読んでいた。

読みやすくて結構考えるテーマの多い本であるので、タイトルの胡散臭さに惑わされずに読んでみると良いかもしれません。


【記事中で言及したもの】

「モード性格」論―心理学のかしこい使い方

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性格とはなんだったのか―心理学と日常概念

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