罰なき社会と学校社会と
学校社会に外から関わるようになり、「学校的」な考えのようなものに違和感を覚えることが以前より増した。昨今では、張り手や竹刀で叩くといった分かりやすい体罰はあまり見ないが、学校は罰的なものに満ち溢れている。「そんなことばかりしていると連絡帳に書くよ」みたいな嫌悪的な事象を持って行動を統制しようとする場面はよく目にする。その一方で、みんなができていることについてが強化の随伴性が仕組まれることは驚くほど少ない。授業が始まったら教科書を出すこととか、話が始まったら先生の方に注意を向けることとか。これらのことって(私には)結構凄いことだと思うのだけれども、そんなことはできて当たり前と思う人が多いようだ。
そんな中、スキナーが来日したときの講演を基にした「罰なき社会」読んだ。
この講演では今の社会に数多くある罰的なものの存在や、なぜそうした罰的だとされるものが蔓延するのかの原因について書かれている。そして、そうした問題を解決するための手段としての行動修正法(応用行動分析)の存在を挙げている。
その中で、教室場面の現状と行動修正法の活用について次のように書いてある。
生徒たちは、教師にいま叱らなければとか小言を言わなければと思わせることはいつもですが、いま褒めなければとか認めてやらねば とか思わせることはほんどありません。望ましくない行動は罰のきっかけとなるのです。生徒たちが望ましい行動をしている かぎりは、教 師は全 く「無干渉」です。しかし、この「無干渉主義」は命取りになりかねないほど危険です。 教師は生徒たちが良くない行動をしているときでなく、良い行動をしているときにこそ注意を向けるべきなのです。教師が正の強化を用いる機会を逃さないようになったとき、教室において劇的な変化が生じます。(p.90)
スキナーの来日は1979年のことだから40年近く前のことになるのだけれど、ここで言われている「無干渉主義」に当てはまる学級は今でも多いと思う。
「罰なき社会の探求」を「幸福の探求」であると言うスキナーは次のように書いている。
罰からの逃避ないしは回避によってなにかをするときには、我々はしなければならないことをするといいます。そして、そういったときには幸福であることはまずありません。その結果が正の強化をうけたことによってなにかをするときには、我々はしたいことをするといいます。そして、幸福を感じます。幸福とは、正の強化子を手にしていることではなく、正の強化子が結果としてもたらされたがゆえに行動することなのです。(p.96, 太字は原著者)
学校は子どもの幸福を探求する場所になっているのだろうか。