猫も杓子も構造化

発達障害、特別支援などについて書いています。最近は心理学関係の内容が多めです。

ABC分析についての話を終えて

先月、ABAの基本的な知識について療育や保育の場で働いている方々を対象に話をする機会をもらった。このネタ自体は以前にもやっていたので2度目だったが、話の後の質問や対象者の問題関心から、次に同じテーマで話すとしたらいくつか補足しないといけないとも感じたので記録に残しておく。

強化子がないと働かないなんてとんでもない問題

ABA対して寄せられるよくある質問。例えば、ベイリー・バーチ(2017)は「もし子どもにトークンや食べ物のご褒美といった行動的な手続きを用いるなら、子どもたちは単に強化子のために働くということになってしまうでしょうか?」との質問に対して以下のように答えている。

行動分析家として働くとき、私たちは行動プログラムの最終目標として、形成した適切な行動が自然な強化子によって維持されることを重視します。私たちが、ポイント、お金、キャンディーや他の物的強化子を使用する理由は、誰かに何かをさせるための唯一の方法が、より大きなご褒美しかない場合があるからです。これらの物的な強化子は、プログラムの初期に使用されます。・・・中略・・・大切なことは、物的強化子を使用すると決めた場合には、ゆくゆくはそれらを自然な強化子へとフェインディングすることを考えたうえで介入計画を立てるべきだということです。(p.146)

また、この問題に対して、スキナー(1990)は次のように言っている。

もちろん、我々は籤を手に人れるためにだけ勉強し続けるような生徒を望んでいるのではありません。学校で身につけた行動はいずれは日々の生活において自然な随伴性によって強化されるようになるべきなのです。日常の自然な随伴性は教育効果があがるような形で教室に持ち込むことは容易ではありません。この点にジョン・デューイの教育哲学における大いなる誤解がありました.我々は実生活のために教育しなければならないのですが、実生活そのものを効果的に学校のなかに持ち込むことはできません,教室内での随伴性はある程度は仕組まれたものにならざるをえませんが、うまく仕組まれたならば生徒が後におかれる日常の自然な随伴性のなかで誰にでも有利に働く行動をうみだすことができましょう。(p.91)

ポイントは自然な強化子や自然な随伴性なのだが、往々にしてこれらを得ることができていないときに、望ましくない行動の過剰や望ましい行動の不足が問題とされるわけである。そうした際に、自然な強化を受けるまでの道のりとして物的な強化子を活用しましょうというのがABAの提案なのだろう。前もってスライドに仕込んでおけば良かったかな。

ABC分析より前段階にやるべき問題の分析

話の内容がABC分析だったので、強化・弱化の仕組みを中心に話すことが多かったのだが、現実的な諸々の問題に対応するためにはその前段階で行う分析もあったほうがよかったのかもしれない。

望ましい行動の不足や望ましくない行動の過剰といった問題が存在する場合に、その原因を「知識」「技能」「遂行(動機づけ)」のどの水準で見るかによって対応策は変わってくる。

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上の図はインストラクショナルデザインを解説した島宗(2004)のp.94に載っているものだが、強化や弱化というオペラント型の条件づけの守備範囲は主に「遂行(動機づけ)」水準の問題の場合だろう(知識の不足を先行条件の操作で補うということもできるけれど)。問題となる事態において、どの水準で解決策を提示するべきか考えた上で、強化や弱化とかの話につなげると、見通しがよくなったのかもしれない。

参考
ベイリー・バーチ『行動分析的“思考法"入門―生活に変化をもたらす科学のススメ
スキナー「罰なき社会
島宗『インストラクショナルデザイン―教師のためのルールブック

カンマ入り数字のあるcsvの読み込み

csvからデータを読み込むときにカンマが入った数字(29,000)みたいなものが因子型(factor)のベクトルとして読み込まれることがある。

そういうときには、read.csvのオプションにstringsAsFactors=FALSEというオプションをつけると良い。こうするととりあえず文字列(character)のベクトルとして読み込まれる。

dat <- read.csv("ファイル名.csv",header=TRUE,fileEncoding="CP932",
                stringsAsFactors=FALSE)

で、文字列からカンマを取り除かないと数値型に変換できないわけなので、sub関数によって「,」を「」に置き換えた後に数値変換をすると数字型のベクトルを得る。

dat$列名 <- sub(",","",dat$列名)
dat$列名 <- as.numeric(dat[,列名])

データフレーム全体にこれを適用したいのだけれど、sub関数はデータフレームに適用してもうまくいかないので、しかたなしにsub関数を繰り返し処理でやることにする。ループ変数のベクトルを繰り返しの列番号の集合にすれば、処理したい列を選ぶこともできる。

# 全ての列に適用
for(i in 1:9){
  dat[,i] <- sub(",","",dat[,i])
  dat[,i] <- as.numeric(dat[,i])
}

# 2,4,6列目を数値にする
for(i in c(2,4,6)){
  dat[,i] <- sub(",","",dat[,i])
  dat[,i] <- as.numeric(dat[,i])
}

もっとスマートな方法がありそうな気がするが、とりあえずこれでなんとかなるのでよしとする。

ggplot2の練習その1

Rで美しいグラフを描きたい欲が急に湧いたため次の本を買った。

Rグラフィックスクックブック ―ggplot2によるグラフ作成のレシピ集

Rグラフィックスクックブック ―ggplot2によるグラフ作成のレシピ集

ggplot2の存在は今までも知っていたが、どうも使い方に慣れずかつ必要性もそんなになかったのでデフォルト関数でやってきたけれどオシャレグラフが私を呼んだので練習を始めた。

データは何でもよかったので、特別支援学校の在学生数あたりを手始めに。文科省のページでエクセルが公開されている。

文部科学統計要覧(平成29年版):文部科学省

和暦が嫌いなのでちゃちゃっと西暦に直して必要な部分を読み込ます。ライブラリを呼び出し、とりあえずプロットしてみる。qplot()関数で描ける。

library(ggplot2)

qplot(dat$, dat$在学者数)

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日本語が文字化けしているがオシャレ感漂うプロットができた。xとyをデータフレームのラベルで指定して,dataの引数にデータフレームを指定する方法でもいける。

qplot(, 在学者数, data=dat)

文字化け問題はテーマを設定すれば良いらしい。theme_grayのフォントをbase_familyでヒラギノに指定してやれば解決するようだ。

#日本語文字化け対策
theme_set(theme_gray(base_family="HiraKakuProN-W3"))

f:id:nekomosyakushimo:20180302140008p:plain



折れ線にしたければ引数のgeomでlineを指定する。

#折れ線
qplot(, 在学者数, data=dat, geom="line")

#折れ線と点
qplot(, 在学者数, data=dat, geom=c("point","line"))

f:id:nekomosyakushimo:20180302140354p:plainf:id:nekomosyakushimo:20180302140407p:plain



軸の区切りをもう少し細かくしたい場合は次のようにするとできる。

#x軸の区切りを細かく
p <- qplot(, 在学者数, data=dat, geom=c("point","line"))
p + scale_x_continuous(breaks=seq(1960,2015, by=10))

f:id:nekomosyakushimo:20180302142040p:plain

基本はパーツ単位で設定していくようだ。とりあえずここまで。

PDFの表をエクセルに取り込む

手元に大量というほどでもないのだけれど、手作業でやるにはちょっと時間がかかるデータがあって、今後何かで必要なこともあるだろうと機械にやらせる方法を調べ、そして苦戦した備忘録。

macOXでエクセルはExcel for Mac 2011でやっています。

まず、PDFをエクセルで取り扱い可能なファイルにするためにあれやこれやと調べると次の記事が出てくる。

qiita.com

記事に従ってtabulaを操作。ここまでは順調。表をcsv形式にしたものを手に入れる。

このcsvにしたものをエクセルに食べさせるのだけれども、文字化け問題が発生。調べると次の記事がヒット。テキストエディットからエンコーディングを変えてcsvで保存すると文字化け問題は解決する。

blog.skeg.jp

気を取り直してエクセルにインポート。今度はセル内改行がうまく読み込めない。csvになる段階で,セル内改行があるデータは" "で区切られているのだけれど, 読み込みの時点で先に改行してから読み込んでいるのか、セル内改行も全部改行される。調べると次のページがヒットし何となく原因は分かりそうなのだがうまい解決に至らない。

d.hatena.ne.jp

色々試した結果、csvgoogleスプレッドシートに食べさせてからエクセルで出力をするととりあえず、セル内改行を正確に反映したエクセルファイルを得ることができた。当面はこれでなんとかなりそう。

罰なき社会と学校社会と

学校社会に外から関わるようになり、「学校的」な考えのようなものに違和感を覚えることが以前より増した。昨今では、張り手や竹刀で叩くといった分かりやすい体罰はあまり見ないが、学校は罰的なものに満ち溢れている。「そんなことばかりしていると連絡帳に書くよ」みたいな嫌悪的な事象を持って行動を統制しようとする場面はよく目にする。その一方で、みんなができていることについてが強化の随伴性が仕組まれることは驚くほど少ない。授業が始まったら教科書を出すこととか、話が始まったら先生の方に注意を向けることとか。これらのことって(私には)結構凄いことだと思うのだけれども、そんなことはできて当たり前と思う人が多いようだ。

そんな中、スキナーが来日したときの講演を基にした「罰なき社会」読んだ。

ci.nii.ac.jp

この講演では今の社会に数多くある罰的なものの存在や、なぜそうした罰的だとされるものが蔓延するのかの原因について書かれている。そして、そうした問題を解決するための手段としての行動修正法(応用行動分析)の存在を挙げている。

その中で、教室場面の現状と行動修正法の活用について次のように書いてある。

生徒たちは、教師にいま叱らなければとか小言を言わなければと思わせることはいつもですが、いま褒めなければとか認めてやらねば とか思わせることはほんどありません。望ましくない行動は罰のきっかけとなるのです。生徒たちが望ましい行動をしている かぎりは、教 師は全 く「無干渉」です。しかし、この「無干渉主義」は命取りになりかねないほど危険です。 教師は生徒たちが良くない行動をしているときでなく、良い行動をしているときにこそ注意を向けるべきなのです。教師が正の強化を用いる機会を逃さないようになったとき、教室において劇的な変化が生じます。(p.90)

スキナーの来日は1979年のことだから40年近く前のことになるのだけれど、ここで言われている「無干渉主義」に当てはまる学級は今でも多いと思う。

「罰なき社会の探求」を「幸福の探求」であると言うスキナーは次のように書いている。

罰からの逃避ないしは回避によってなにかをするときには、我々はしなければならないことをするといいます。そして、そういったときには幸福であることはまずありません。その結果が正の強化をうけたことによってなにかをするときには、我々はしたいことをするといいます。そして、幸福を感じます。幸福とは、正の強化子を手にしていることではなく、正の強化子が結果としてもたらされたがゆえに行動することなのです。(p.96, 太字は原著者)

学校は子どもの幸福を探求する場所になっているのだろうか。

学校外部から特別支援に関わる人の立ち位置は

石隈先生の『学校心理学』という本の中に次のような図がある(p.111)。

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これは学校臨床心理学というものを提唱している近藤先生が、援助サービスを援助者の位置(被援助者が属する社会との関係性)と援助の方法(直接性)の2つの軸で整理したものである。

本の中ではスクールカウンセラーを念頭において心理臨床活動を分類する目的で使われていたけれども、これはスクールカウンセラーに限らず学校の外部の人がが学校現場と関わる活動をする際の整理としてもある程度あてはまるのかもしれない。このブログで対象としている特別支援教育とか。

東京都は児童生徒が通う通級を止めて、先生が学校に訪問するスタイルの「特別支援教室」というものに移行している真っ最中である。この図にそってその流れを整理すると、外・社会体系で直接的に援助を行なうⅠの領域から内・社会体系で直接的に援助を行なうⅣの領域への移行と捉えることができる。

私が現在関わっている学校の先生への特別支援教育についての助言などは、学校を訪問して行なう間接的な援助なためⅢの領域に属するだろう。特別支援学校のセンター的役割として行われている巡回相談などもこの領域だと言える。

インクルーシブ教育推進の流れとかチーム学校とかの流れと関係あるのかは分からないのだけれど、必要な援助を体系内部の現場で行なう方向性というのが一つの流れなのかもしれないと、この図を見ながら思った。図で言うと下側の領域で行われていることが上側に移行すること。そうなると、学校現場には教員以外の様々な立場の人が入ってくる訳だけれども、それをコーディネートする役割というのが俄然重要になってくる訳だ。特別支援教育だと、特別支援教育コーディネーターがその役割にあたることとなる。しかし、その役割を果たすための十分な資源(校務分掌の配慮・専門性を高める研修等)が整っているかというと、私の知るいくつかの現場を見る限りでは楽観的にはなれない。

個々の子どもに対する有効な支援を蓄積するのも大事なんだけれど、うまく回るための仕組みについての知見をもっと蓄積していく必要があると感じている。

島宗 理『パフォーマンス・マネジメントー問題解決のための行動分析学ー』

パフォーマンス・マネジメント―問題解決のための行動分析学

パフォーマンス・マネジメント―問題解決のための行動分析学


前から読もうと思っていながら読む機会を先送りにしてきたのだけれども、今回ABAの学び直しの一貫で読んだ。

感想としては、凄い良い本でもっと速く読むべき本だったと思う。

良いと思う点は、ポップでキャッチーな事例がたくさん出て来るのだけれども理論的な裏付けがしっかりしているところ。このポップさは目次を見れば一目瞭然、日常的な問題解決にいかに行動分析学が役に立つのかを示している。

  • 部下のマネジメント
  • 安全のマネジメント
  • 体重のマネジメント
  • 恋愛のマネジメント
  • スポーツのマネジメント
  • 道徳のマネジメント
  • 病院のマネジメント
  • 品質のマネジメント
  • 知識のマネジメント
  • 学校のマネジメント

発達障害界隈で仕事をしているとどうしてもABAを教育・療育のための道具として見てしまいがちだが(そしてそれはある意味では正しいのだが)、ABAの適用範囲は広く、私達の日常生活をより良いものに変える理論と技術の体系だということが、この本からは分かる。

日々の生活上の問題を科学的な観点から改善したい人はぜひ読んでみると参考になる点が多々あるでしょう。