猫も杓子も構造化

発達障害、特別支援などについて書いています。最近は心理学関係の内容が多めです。

阿部利彦『通常学級のユニバーサルデザインスタートダッシュ Q&A55』

通常学級のユニバーサルデザイン スタートダッシュ Q&A55

通常学級のユニバーサルデザイン スタートダッシュ Q&A55

授業UD系の本に少しずつだが入門している。編著者は授業UD関係だとよく名前を聞く阿部利彦先生(星槎大学)。教育のUDについて55のQ&A形式で解説している。

この本では、教育のユニバーサルデザインを、「授業のUD化」「人的環境のUD化」「教室環境のUD化」を3つで構成されるものとして定義している。小貫・桂による『授業のユニバーサルデザイン入門』(東洋館出版)よりも、教育におけるUDというものを広い視点から整理しなおしている。(もちろん重複している部分もある)

読んでいて受けた印象として、授業UDが「学校の先生たちにとってのリアリティ」というのを重視しているのだと思った。本書では授業UDにとって大切な工夫として「ひきつける」「方向づける」「むすびつける」「そろえる」「わかったと実感させる」という概念が登場する。概念の定義があいまいな気がしていて、これらの言葉の意味するところが正直なところ私にはしっくりきていない。これらの概念が提案された経緯は次のように書いてある。

「わかる」「できる」授業をしたい。でも実際は、一時間の授業をどう展開すればよいのだろう。どのタイミングで「視覚化」「焦点化」「共有化」を意識すれば良いのだろう。
 このような悩みがある先生は、意外と多くいらっしゃいます。
 この悩みを解決し、「わかった」「できた」につながるある工夫を指摘しているのが、阿部利彦(2014)です。阿部氏は、UD化された授業を観察・分析していくうちに、共通した特徴があることを発見しました。(p.40)

つまり、授業UD化のための柱として言われていた「視覚化」「焦点化」「共有化」といった概念をより具体のレベルに置き換える過程で生まれてきた言葉だということなのだろう。

また、学校の先生たちにとって、ある種のロマンというものを尊重しないと市民権を得ないというのは、外から学校現場に関わったりする私のような人間にとってよくよく考えないといけないのかもしれない。

ペアワークやグループの能力差についてのQ&Aでは次のような記述を見た。

大切なことは「だれとでも」関係をつくれることです。良いグループ、悪いグループは、はじめに決まることではなく解散する時に決まることです。良いグループにするために自分はどのように働きかけるのか、この気持ちが大切です。(p.94)

私のようなひねくれものは、「だれとでも」関係をつくれるなんて、そんな無茶な要求をされて子どもたちは可哀想に、なんて思ってしまう訳である。自分が関係したいくつかの職場を見てみるだけでも、「だれとでも」関係を作れている職場なんて見たことがない。なぜ、子どもたちだけがそんな不当にレベルの高い要求をされるのであろうか、と。

心理の立場から教育の場に入るときは、こうした「教員文化」みたいなことを考慮した上で入っていかないのとうまくいかないのかもしれないとか、そんなことを感じた読書であった


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授業のユニバーサルデザイン入門 (授業のUD Books)

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