猫も杓子も構造化

発達障害、特別支援などについて書いています。最近は心理学関係の内容が多めです。

機能主義と観察の時間的な幅について

年賀状の代わりに、ぐだぐだとまとまりのない考え事をお送りいたします。今年もよろしくお願いします。

WISCの下位検査に「積木模様」というものがある。所定の数の積み木を組み合わせて、示されたお手本と同じになるように積木を構成する課題である。簡単な図形から徐々に複雑な図形になっていき、どこまでできたかで能力を測るというものである。

さてここで、タロウくんとハナコさんという同い年の2人がそれぞれ積木模様の検査に取り組み、全く同じところまで同じ時間をかかって課題を達成できたとする。そこで得られた粗点を基に評価点を算出すると、当然のことながら2人は同じ評価点になる。同じ評価点ということは同じくらい能力を持っていると言えるだろう。

ところが、実はタロウくんは母親の誤った英才教育により1ヶ月前より積木模様の訓練をしていたとする。母親はどこからか入手した積木模様の実施マニュアルを読み、同じ課題を繰り返しタロウくんに練習させて解答を覚えさせていたのだ。(こういうことがあると心理検査の妥当性が損なわれるので、心理検査の内容を公開することは禁じられている。)

この場合、タロウくんとハナコさんが同じ能力を持っているとは言えるだろうか。おそらく言えない。タロウくんはただ解答を暗記してきただけで、視覚空間の認知について能力を発揮したとは言い難い。タロウくんとハナコさんでは測られたものが違うのだ。当たり前のことだ。

ただ、ここで気になるのは「行動」の面だけ見るとタロウくんとハナコさんは全く同じ「ふるまい」をしている。で、機能主義的(functionalism:あるいは函数主義的)に考えるのであれば、インプットに対して同じアウトプットを返すのであれば、それらは「同じ」ものである。

ここで二人の能力が違うとした判断には、機能主義的でないプロセスが働いているのだろうか。あるいは、練習をしてきたという過去の事象をも独立変数にして、それもインプットとして機能主義的に考えているのだろうか。

もし後者であるのならば次のような場合はどうか。タロウくんはが練習したのは実際の検査で使う課題ではなく、似たような課題を集めた練習問題のようなものだったとする。それを繰り返し繰り返し行なうことで、タロウくんはただ単に解答を暗記をしたのでなく、あらゆる積木模様の課題を素早くこなせる能力を身に着けていた。

こうなってくると、タロウくんとハナコさんの違いは内的なプロセスの面ではほとんど差がなくなってくるだろう。もちろん新規の課題に対応する流動性の能力を測っているのか、あるいは手続き的な知識を測っているのかのように考えることができるのかもしれないが、それらを検査の結果という「ふるまい」から判別するのは難しいことだろう。

とすれば、機能主義的に言ってタロウくんとハナコさんは同じ能力があると言っていいのかそうでないのか。結局のところ観察のパースペクティブをどこまで広げるのかという話になるような気もしている。

機能主義あるいはそこから心理学の内部で生まれた行動主義、そして方法論的行動主義によって研究対象を広げてきた多くの主流の心理学は、インプット(独立変数)とアウトプット(従属変数)にどれだけの時間的な幅を意識して議論を進めているのだろうか。

ここの所自分の中でブームである「発達」と「行動」のつながりを考えるには、この「観察における時間的な幅」というのが大事な気がしている。