猫も杓子も構造化

発達障害、特別支援などについて書いています。最近は心理学関係の内容が多めです。

ASDと心の理論と

先日の記事で「心の理論」のチンパンジーを対象とした元論文について書いた。

nekomosyakushimo.hatenablog.com

書いている中で、そういえば私はバロンコーエンのオリジナルも読んだことが無かったことに気がついたのでそれにも目を通してみることにした。

Does the autistic child have a “theory of mind” ? - ScienceDirect

10ページもない短さがとても良い。やっていることは至ってシンプルで、定型発達、ダウン症ASDの3群に対して誤信念課題を実施してその通過率の差を検討しているだけ。検定もカイ二乗検定および、偶然かどうかを確かめる二項検定しか出てきませんし。

誤信念課題とは、他者が「誤って思っている」状態(誤信念)を適切に推論できるかを見るもので、サリーとアンの課題が有名である。ググればたくさん出てくる。日常生活で使うところの、「あるものを価値づけて信じこむ」みたいな「信念」とは用法が違うので注意が必要である。

結果をかいつまんで書くと、まず名称の質問(naming question)については全ての実験参加者が通過した。事実の質問(reality question)および記憶の質問(memory question)についても一人を除き全ての実験参加者が通過している。つまり、参加者はどっちがサリーでどっちがアンかを区別しており、今現在実際にマーブルがある場所および、最初にマーブルがあった場所についての理解は正確であるということだ。

しかし、「サリーがどこを探すと思うか」の信念の質問(belief question)については、定型発達群・ダウン症群がそれぞれ85%/86%と通過する一方で、ASD群は20%しか通過することができなかった。このことから、ASD児は自身の知識の状態と他者の知識の状態の差を分けて評価する能力が障害を受けている可能性が示された。そして、より重度の知的障害を伴っていたダウン症が誤信念課題を通過できていた一方で、通過できないASD児が多かったことから、この障害は一般的な知的能力の低さには還元できない独立したものである可能性が示された。

ちなみに、共著者にフリスが入っているが、バロンコーエンの指導教官であったということを、関連した調べ物をする中で始めて知った。色々な研究者を輩出している研究室なんですね。

チンパンジーと心の理論と

ASD児者が心の理論に障害を持っているという仮説は、イギリスのバロンコーエンが最初に提唱したものである。少し詳しい人であれば、この心の理論というのは最初は、霊長類研究者であるプレマックとウッドルフがチンパンジーについて検討したものだということも知っているであろう。「チンパンジーは心の理論を持つのか(Does the chimpanzee have a theory of mind?)」という題でThe Behavioral and Brain Sciences に掲載された論文はとても有名である。

Does the chimpanzee have a theory of mind? | Behavioral and Brain Sciences | Cambridge Core

私は論文の名前は知っていたのだが、実際にプレマックとウッドルフがどのようにしてこの命題を検討したかについては知らなかったので抄録と中身を少し読んでみた。

この実験では、サラというチンパンジーに対して、人間の役者が困っているシーンを撮影したビデオテープを見せたようだ。そのシーンは、食べ物を取ることができなくて困っているような単純なものと、(役者が)鍵のかかったケージから抜け出せなかったり、動かないヒーターを前に寒がっているシーンだったりとやや複雑な問題場面のものである。

ビデオテープの最後の部分で映像を止め、その問題を解決できるもの(例えば、ケージを開けるための鍵など)を含む選択肢を写真で提示し正しいものを選ぶことができるかが記録された。最初の試行では、選択肢には全然関係ないものを含めて提示を行い、続く試行ではより微妙な差の選択肢(例えば、そのままの鍵、ねじれた鍵、壊れた鍵)が提示された。

最初の選択肢の系列では、サラは一度も間違うことなく写真を選ぶことができたようである。続く差がより微妙な選択肢の系列でも、サラは12回の選択中1回しか間違わなかったようであり、このことは単純な問題と道具を物理的にマッチングさせているだけでなく、役者の意図や目的を推論して行動していることの根拠とされたようである。

この他にも論文では、サラが好きな飼育員とあまり好きでない飼育員を役者にした場合などより詳細に検討を行っているが、詳しく知りたい方は元論文にあたられると良いだろう。

心の理論というと、サリーとアンなどの誤信念課題で考えるものという程度の理解しかなかったので、チンパンジー相手にどのように測定するのかは大変興味深かった。

3つ組はセットで考えるべきか

link.springer.com

ASDを考えるときに有名な三つ組(triad)というものがある。これは、社会性、コミュニケーション、想像力の3つの症状からASDを考えましょうと、イギリスの児童精神科医のウィングが提唱したものである。

この三つ組を考えるとき、これらが単一の共通のメカニズムから出てきたものか、別々のメカニズムから現れてきたものかは冒頭のハッペとロナルドの論文以来、議論になってきたようだ。2014年にはAutismにおいてこれをテーマに特集号も組まれている。巻頭の編集者のコメントはアクセスがフリーでだれでも読める。

http://journals.sagepub.com/doi/full/10.1177/1362361313513523


ハッペらの論文では、双子研究のデータと関連論文のレビューを通して、三つ組はそれぞれが大部分独立した遺伝子によって現れる症状であるとの仮説を提案している。そして、そうした前提に立って進めていく研究を"the fractionable autism triad approach"と称し、新たな問いや理論的/実践的意義につながる可能性を論じている。

"fractionable autism triad"は日本語で紹介しているものはざっと調べたところなさそうだが、fractionが断片や破片とかの意味なので、「断片化可能な自閉症の三つ組」あるいはもう少し簡単に「分解可能な自閉症の三つ組」とでも言っておくべきだろうか。

この研究とは直接的に関係ないが、弱い中枢性統合仮説の最初期は心の理論障害の原因となるメカニズムだと想定してリサーチを進めていたのが、社会的な情報処理、非社会的な情報処理は別のメカニズムであると主張を変えるようになった歴史がある。

nekomosyakushimo.hatenablog.com

そんなことを考えながら、単一のシンプルな機構で捉えられない障害像の多様性というのがASD研究の持つ難しさなのかもしれないと再認識をした。そしてそれはDSM-Vでスペクトラムという範疇を採択したことにより、白か黒かのカテゴリーの話から濃淡の話になったのでよりモデルの構築に工夫が求められることを意味しているのかもしれないということを思った。

女性のASD当事者の障害を見えにくくする要因

自閉症スペクトラム障害の女性は診断に至るまでにどのように生きてきたのか:障害を見えにくくする要因と適応過程に焦点を当てて

読んだ。女性ASD当事者へのインタビューをもとに、ASDの障害を見えにくくする社会環境的要因を明らかにし、その中で当事者がどのように生きてきたのかについて検討した論文。

ふるまいの上では適応的に見えても内面では苦しんでいるケースなど、「語り」のデータならではの示唆がある。

ASDの女性は,女性として生きるライフサイクルの中で,社会的な期待と,ASD 特性による難しさの中で,適応の努力と失敗を繰り返す ことで,表面的には社会に適応しているように見えるよ うなスキルを学習するものの,失敗経験と自己否定的な原因帰属の積み重ねによって【自尊心の低下】が起こっていることが明らかとなった。そのため,ASDの女性 は外からは社会的なスキルが高く適応しているように見えても,心理的な健康度はそれほど高くなく,内面的な 支援が求められていることが示唆された。(p.95)

臨床的な示唆として、学校段階で「大人し くて目立たない子どもを見逃さない(p.96)」ことの重要性が挙げられている。教育現場で特別支援に関わる人はこのことを意識をして行動観察をしたり、担任やカウンセラーとの面談などの情報まで意識的に守備範囲を広げると良いのかもしれない。

猫も杓子も今年の3冊【2017年】

昨年、一昨年とやっているので今年も良かった本の紹介を。

【昨年までの記事】
猫も杓子も今年の3冊【2016年】 - 猫も杓子も構造化
猫も杓子も今年の3冊【2015年】 - 猫も杓子も構造化


今年は自分の身分的なところにそれなりの変化があり、本を読む時間は昨年より大幅にあった・・・はずなのだけれども、調べ物の最中で読んだり、必要な部分だけを読むような細切れの読書をしていた感が強くて1冊の書物として読んだ!という感じがまるでしない。そんな、読書経験としては貧弱な1年だったけれどもその中でコレはと思ったものを。

自閉症関係

自閉症の現象学

自閉症の現象学

今年自分が読んだ本の中で一番インパクトが強かったのはこれでしょうか。自閉症の理解の枠組みとして哲学を援用するというのは、今までにもないことはないのだけれども、この本はそういう本とも少し違っている。自閉症の経験世界を現象学というアプローチで描き出すことを通じて、現象学を含む既存の哲学や人間理解の在り方を組み換えようとする。そういう意味で大変に野心的な本だと思う。「はじめに」から少し抜き出してみよう。

自閉症は、哲学における既存の前提を全面的に組み替えることを要求する。自閉症は西欧哲学が考えることのなかった人間経験の地平を提示している。そもそも人間の経験の構造は一つには固定できないのだ。自閉症は人間の可能性の地平を拡げる。あるいは自閉症に照らされることで哲学も相貌を新たにすることになる。(p. v)

自分自身が咀嚼できているかといわれると自信は全くないのだけれども、とにかく読み応えのありパワーのある本だった。今後も時間をかけて消化していきたい。

心理学関係

これを読んでいたのは昨年の大晦日なので正確には昨年の読書なのだけれども紹介する機会がなかったので今回に合わせて。神経心理学の立場から、高次脳機能障害の解説およびそのリハビリテーションを紹介している。この本は、高次脳機能障害やそのリハビリについての入門およびレファレンスとしても役に立つのだが、それ以上に、神経心理学を他の心理学との関係性の中で論じた1章「心理学的方法論」や、障害を治療することの意味についての哲学的な考察である2章「「障害」と「治療」の意味」がとても勉強になる。障害およびリハビリテーションの意味を、「自由性の障害」というアイデアと関連付けながら、治療の根源的な意味を問う2章の論考は、リハビリテーションや障害者支援に関わる人間が真摯に向き合わなければならないテーマであり、考えさせられることのとても多い読書だった。

統計関係

「みどりぼん」の愛称で親しまれている。この本の主張をすごく大雑把に言ってしまえば、説明のためのモデルを組みたてる際に、モデルに合うようにデータの側を加工するのではなく、データに合うようにモデルの組み立て方を適切に選択しましょうということだと思う。心理学を中心に統計をかじってきた身としては、基本的に誤差が正規分布する世界(いわゆる一般線形モデル)で生きてきた訳で、その世界を相対化して一般化線形モデルまで拡張することができて大分見通しが良くなったように思う。現状の「有意差」の扱われ方などを批判的にとらえつつ脚注にちょいちょい挟んでくるスタイルが結構好みである。
 基本的にはコードは全てRで動かすのでRについての入門をしてから読むと良いでしょう。

信頼区間について

真値は不変、区間が確率的に変動。
真値は不変、区間が確率的に変動。
真値は不変、区間が確率的に変動。

みなさん、1日10回音読しましょう
特に人に説明する立場にあるひt・・・うわなんだおまえやめくぁwせdrftgyふじこlp

【参考】
信頼区間についてよくある誤解に関して|薬剤師のためのEBMお悩み相談所-基礎から実践まで

小貫悟・桂聖『授業のユニバーサルデザイン入門』

授業のユニバーサルデザイン入門 (授業のUD Books)

授業のユニバーサルデザイン入門 (授業のUD Books)

仕事の都合で読んだ。

以前紹介したUDL(学びのユニバーサルデザイン)とは別物である。こっちは授業UDとか略されたりする。
nekomosyakushimo.hatenablog.com


二部形式になっており、前半部分は授業UDの基礎編ということで小貫先生による解説が、後半は国語科教育における実践ということで桂先生による授業の様子が収められている。

読んですぐの頃は、前半部分の記述の細かい部分(例えば三項随伴性の説明とか、刺激量の調節の論の進め方とか)が気になっていたが1週間ぐらいすると「専門家に向けた本でもないし別にいいか」となぜか穏やかな気持ちになってきたので、もうすこし大雑把なレベルでの感想を書く。

読んでいて、授業UDは学校教育の枠組みにうまくはまるように特別支援教育を位置付けたなぁということをまず思った。というのも、学校というのは今も昔も授業というのもを一つのベースに動いていて、日課表にしても教員の研究にしても授業という枠組みで行われることが多い。初任者の研修みたいなものを見ても、初任者は年度の終わり付近に研究授業をやる自治体が多いのではないだろうか。

そんな授業ベースで動いている学校という組織において、特別支援教育が位置づくためには授業の枠組みと無関係に支援の手立てが蓄積されるよりも、日々の教員の主たる業務である授業の仕組みの中に組み込んだ方が、学校内で取り組みの支持を得やすいだろう。そういう意味で授業UDというのはうまくやったんだなという印象が強い。なんか名前もキャッチーですし。

この点は、UDLとは対照的だとも思う。あれはどちらかという既存の「授業」という枠組みを解体する方向性を持っているように感じるし、多くの通常級の先生にとって取り入れるためには、日々の授業の根本となる考え方を大きく変えないといけないものに思う。通常級の先生にはウケはそこまで良くないのではないだろうか(私個人としては、授業とか学級とかいう単位を解体した方が良いと普段から思っているので結構好きなんですけど)。

特別支援教育士の研修を受けていたときも思ったけれど、特別支援教育はあくまで個の支援に関する知見はたくさん蓄積してきたけれども、集団へ向けた支援というのはまだまだこれから考えていかなければならないのではないかと思う。そうした意味で、本書の中でも繰り返し述べられているが、特別支援教育と教科教育の架け橋として授業UDというのは機能する可能性がある。授業研究の枠組みにのるということは、教科教育との接続がしやすくなるように思うからだ。

読みながら研修で昔「特別支援教育ではなくて支援教育という言葉になればいい」という話を聞いたのを思い出した(記憶が定かではないが確か筑波大附属の大塚特別支援学校の安部(あんべ)先生の話だったと思う)。通常学校の先生たちの日々の授業の研究の中に特別な支援が組み入れられることで、支援というものが「特別な人」が受けるものではなくなっていくのかもしれない。そうすると、みんなが学びやすい学校というものに少しは近づくでのはないかと、そんなことを思った。